
ストーリーが酷評されても『ギルティクラウン』は傑作アニメだと思うのでその魅力を語る【感想】
公開日|2025年8月21日
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何年かおきにふと、「あれ…昨日の晩まで頭にもよぎらなかったけど急に見たくなってきたな…興奮してきたな」と、某芸人のコントばりに突然『ギルティクラウン』を見返す筆者だが、先日またそのサイクルが来たので一気見してしまった。今回はその感想をまとめようと思う。
まず、この『ギルティクラウン』は2011年のアニメということで、放送開始から既に10年以上の時が経っている事実に驚かされる。しかしクオリティは今見ても全く色褪せず、2025年現在に放送されていても遜色ないレベルだ。当時の制作陣のとんでもない熱量が画面から伝わってくる。(ちなみに2011年は全クール豊作の年だった)
作品全体を包み込む近未来の世界観、圧倒的に美しい作画、ケレン味に満ちた戦闘シーンというアニメーションとしての質の高さは言うまでもない。さらに、天才劇伴作家・澤野弘之による劇伴、後にアニメファンに絶大な支持を得ることとなる音楽ユニットEGOISTの誕生など、アニメ音楽の価値そのものを底上げした功績も計り知れない。
では「肝心の物語はどうだったか…?」という話になるのだが、これが本作の評価を真っ二つに分けることとなってしまった。
検索エンジンで『ギルティクラウン』と入力すると、予測検索には「ひどい」や「意味不明」といったキーワードが多数出てくるほどには賛否両論。中には、「綺麗なゴミ」と、まるで脚本だけが欠点であるかのように、痛烈に揶揄するワードまで出てくる始末。
リアタイしていた頃の筆者であれば、「そんな訳ないだろ!!こんな神アニメになんて事言うんだ!!」と、青臭さ全開で真っ向から噛み付いていただろう。しかし、今一度見返してみると、確かにそのような批判的な意見が飛び出すのも分からなくはないと思ってしまった。
大人になると、見えなくても良いものまで見えてしまうのが辛い。あの頃は、まだ見ぬ未来に胸を躍らせ、望遠鏡を覗き込んでいた…という存在しない筈の情景は、BUMP OF CHICKENに由来していることを確認。
くだらない戯言はさておき、本作『ギルティクラウン』の物語は大きく前半と後半の2つに分けられる。特に後半は、シリアス路線に振り切った鈍重な雰囲気のうえに、唐突かつ複雑な展開が詰め込まれているため、槍玉に挙がってしまいがちだ。
だが、そんな批判の的になっている後半の展開を含めても、筆者は『ギルティクラウン』が大好きだ。その理由を、キャラクターや世界観設定、音楽やシナリオ面に触れながら話していこうと思う。
いまさらだが、今回のレビューは主観多めである。その点はご容赦を。
ギルティクラウン
基本情報

監督|荒木哲郎
主演|梶裕貴
音楽|澤野弘之
アニメーション制作|Production I.G
放送|2011年
話数|全22話
キャッチコピー
友達を武器に戦う。
それは僕が戴きし、罪の王冠。
あらすじ
2029年、宇宙から飛来した未知のウイルス・アポカリプスウイルスの蔓延による大事件ロスト・クリスマスで、大混乱に陥った日本。それから10年後、無政府状態となったこの国は、超国家間で組織されたGHQの統治下に置かれ、かりそめの平和を享受していた。天王洲第一高校に通う桜満集(おうましゅう)は、ウェブで絶大な人気を誇る歌姫、楪いのり(ゆずりはいのり)と出会う。彼女がGHQから日本の解放を謳う「葬儀社」のメンバーだと知った集は、世界を揺るがす闘いに巻き込まれていくのだった。
キャッチコピーの「友達を武器に戦う。 それは僕が戴きし、罪の王冠。」が、あまりにもカッコよすぎる。パッと見何だかよく分からないのに、罪の王冠という響きは厨二心をくすぐるし、友達を武器に戦うという設定も斬新で面白い。
王道漫画とSFを組み合わせた前半
まず冒頭4分を見た瞬間、「これはとんでもないアニメが始まったぞ…!」というただならぬ高揚感に包まれる。
誰もが知る東京は光と影に分断され、東京タワーが発する紫色のライトは異様な存在感を放つ。そしてピンク髪の少女が、何やら機密情報のようなものを盗んで、敵対組織のロボットに追われる様子が描かれる。
そこにEGOISTの歌が、MVのような神秘的な映像と共に流れ、そんなMVを美しい東京の街をバックに、物憂げな表情で見つめる青年。少女は負傷して川へと落下し、『ギルティクラウン』とタイトルバック演出がなされる。
このわずか4分で、最高のキャラデザイン、凝ったSF世界、美麗な作画、そして圧倒的な音楽という「神アニメの要素」がすべて提示されるのだ。期待感は否応なしに高まる。
ギルティクラウンの物語を端的に言うと、ディストピアの世界を舞台にした、ボーイミーツガールから始まる主人公の成長譚だ。
未知のウイルスによって日本が崩壊寸前のなか、主人公の桜満集は、世間をどこか冷めた目線で見ながらも、「僕にももっと、やれることないのかな」と、内心では非力な自分を変えたいと思っている高校生。
そんな集が、ウェブの人気歌姫である楪いのりと出会い、ピンチに陥った彼女を助け出そうとするところから物語は動き出す。

序盤は清々しい程に王道な展開なのだが、さりげない会話や余白のある演出がキャラクターを立体的にしている。
やがて集は、いのりが所属する葬儀社のリーダー・恙神涯らと関わるなかで、偶然「ヴォイドゲノム」という王の能力を手にする。このヴォイドという設定が実に魅力的。
ヴォイドは17歳以下の人間から取り出すことが出来る物質で、その形状や効果は、個々の恐怖やコンプレックスを反映する。
たとえば足に障害を持つ人からは、「自由に歩きたい」という願いが具現化し、スケートのようなヴォイドとなる。つまりヴォイドとは「心の形」そのものなのだ。
だからこそ、戦って勝利するだけでは終わらない。集の心には、他人の内面を覗いてしまった罪悪感が重なっていく。まさにキャッチコピーにある“罪の王冠”そのものだろう。
記事の冒頭で、「大人になると見えなくてもよいものが見えてしまう」とふざけ半分で書いたが、集の能力はその究極の形だ。友達の本心がヴォイドという形で可視化されれば、何を信じていいのか疑心暗鬼になってしまうに違いない。
劇中でも集は能力のせいで疑心暗鬼どころか自暴自棄になってしまうのだが、それでも自身の能力と、そしてそれを抜き出す友達と真正面から向き合うことで、成長していく。
このように物語前半は、学校のクラスメイトや葬儀社メンバーのヴォイドを駆使した戦いを通じて、今まで人と距離を置いてきた集が心を通わせていく、王道成長劇となっている。
挫折と成長を繰り返していく集は、見ていて共感できるし、思わず応援したくなるような主人公…だと思っていたが、悲しいことにネットでは、「クズすぎる」とか「最低だ」とか言われており、賛否がはっきり分かれている。
たしかに、人に流されがちな言動、任務の重圧から逃げる姿はヘタレ要素満載だろう。だが、前半部分までの集は、むしろ等身大で繊細な男子高校生として非常に魅力的だ。
葬儀社という非日常の中に、一介の高校生がいきなり放り込まれたら、慌てふためくより前に、立ちすくんで動けなくなると思う。そんな中でも時折大胆な行動を見せる集は、どちらかと言えば勇敢な主人公の部類なのではないだろうか。
また、葬儀社のリーダーとしてカリスマ性を発揮する恙神涯への嫉妬心から、「どうしてみんな涯が良いんだ!!」と走り出す青臭い一面もある。しかし、それもこれも集の家庭環境や過去が影響し、誰からも必要とされていないと感じる自己評価の低さが原因だ。

そんな集が、自分を必要としてくれたいのりに好意を向けた途端、実はいのりの行動の数々は、涯の命令によるものでしたとなれば、思春期青年の自尊心はズタボロになるし、投げやりにもなるだろう。
集にとっていのりがモチベーションになると踏んだ涯は策士だとは思うが、典型的な美人局の手法を使う涯にこそ批判の声が上がっても良いのでは。
ただし、祭とのやり取りは庇いきれない。傷心のあまり、彼女の優しさにつけ込もうとしたあげく「だって祭は僕のこと好きなんだよね?」と鈍感キャラの仮面を自ら剥がしてしまう…これは正真正銘のクズ行動だ。
それでいて祭に対して少しそっけない態度を見せていた集は、いかがなものだろうか。やっぱり集はクズなのかもしれない(笑)。
とまあ多少のツッコミどころはありつつも、集は自身の力を使い、葬儀社のため、世界のために戦っていく。
前半のクライマックスとなる第11・12話では、GHQアンチボディズ指揮官・茎道によって再び「ロスト・クリスマス(厳密には擬似)」が引き起こされる。涯の指示のもと、集はロスト・クリスマスの元凶である桜満真名を涯ごとヴォイドで貫き、終末を回避する。激動の前半はここでひと区切りを迎える。
主題歌と澤野弘之のサントラが圧巻すぎる
後半の感想に移る前に、『ギルティクラウン』の肝とも言える「音楽」について触れておきたい。
本作の主題歌は、1クール・2クールともにオープニング、エンディングを含めてチームsupercellが手がけている。
なかでも特筆すべきはEGOISTの存在。EGOISTは、ヒロインの楪いのりがボーカルを務める劇中発の架空アーティストとして誕生し、主題歌のみならず劇中歌まで担当している。この試みを見れば、『ギルティクラウン』がいかに音楽を前面に押し出した作品であるかが伺えるだろう。
1クールEDの「Departures ~あなたにおくるアイの歌~」は、いのりの純粋な心情をそのまま音にしたかのような珠玉のラブソングであり、2クールOPの「The Everlasting Guilty Crown」は、緊迫する物語に呼応するように、張り詰めたビートと圧倒的なボーカルが突き刺さる、まさに神曲と呼ぶにふさわしい一曲だ。
EGOISTは放送終了後も活動を続け、多くのヒット曲を世に送り出したが、2023年に活動を終了。結局ライブに行けなかったことはいまだに悔やまれる…。余談だが、筆者が最も好きなEGOISTの楽曲は『PSYCHO-PASS サイコパス』のED曲「名前のない怪物」。いつ聴いても鳥肌モノにカッコいい。
そして、ギルクラの音楽を語るうえで欠かせないのは、劇伴作家の澤野弘之によるサウンドトラック。
澤野弘之とは、言わずと知れた天才作曲家であり、放送前のアニメでも、スタッフ欄に彼の名前を見つけただけで「これは神アニメに違いない」と確信できるほど信頼感がある。
本来サウンドトラックは作品を盛り立てるためのものだが、澤野の音楽はその役割を超え、時にアニメの格を2段階も3段階も押し上げてしまうほどのエネルギーを帯びている。それ故に、彼の音楽が主役として響く場面もあるほど。
『ギルティクラウン』はそんな澤野サウンドと最高の相性を見せた。
集が王の能力を宿すシーンや、美麗な戦闘シーンを彩る「βίος」を筆頭に、「Rё∀L」「α」、そして予告で使われ印象を残した「friends」など、多彩な楽曲が並ぶサウンドトラックは圧巻の完成度。
澤野自身も「ここまで自由にやれた作品はあまりない」と語っており、民族音楽をテクノやロックのフィルターを通して再構築するなど、作品世界に寄り添いながら自由度の高い“近未来の音”を鳴らしていた。
アニメ抜きにしても、1枚のアルバムとして完成度が非常に高く、まさに名盤と言える。
放送から10年以上経った今聴いても色褪せることなく、“未来の音”として響いてくるのは凄まじいことだ。もし当時スルーしてしまった人がいたら、この機会にぜひ澤野サウンドに浸ってほしい。
人間の醜さと美しさを描いた陰鬱な後半
物語は賛否両論を呼んだ後半戦へ突入する。複雑なので、あらすじも含めて感想を書いていく。
アポカリプスウイルスの大感染で都心は完全封鎖。ネットも電話も繋がらず、集や生き残った学生たちは天王洲第一高校に避難することに。
危機は去ったが、ウイルスのワクチンや物資の不足、そして絶対的なリーダの不在によって、生徒だけでの避難生活が徐々に苦しくなり始める。
前半が葬儀社の活動を中心とした爽快感のあるSFアクションだったのに対し、後半は一気にサバイバルな学園ドラマへシフト。閉ざされた空間の中で、モラルの崩壊、人間関係のきしみ、リーダーの必要性といったテーマがこれでもかと描かれていく。
よく学校は社会の縮図だと表現されるが、これを見るとそう思わざるを得ない。
リーダーの必要性が問われるなか、ヴォイドの力を示した集が谷尋の後押しもあり生徒会長に就任することに。ちなみに集は2度目のロスト・クリスマスで、王の能力が変化し、引き出す相手の意識を保ったままヴォイドを渡すことが出来るようになっている。
こうした能力もあって、涯には無い、集らしいリーダー像を見せてくれるかと思った矢先、谷尋から、全生徒をヴォイドの強さでランク分けする「ヴォイドランク制」を提案される。
上下関係を敷けば人は倍働くと主張する谷尋の気持ちも分からなくはないが、他人の目を気にする性格の集はその提案を拒絶するのは自明。
集はリーダーには不向きというのは、クラスメイトであり、一悶着あった谷尋には分かりきっていたことだと思うが、なぜ彼を推薦したのか、理由は良く分からない。もともと生徒会長を務めていた供奉院亞里沙を表に立て、集は2番手として立ち回る方が良かったのではなかろうか。
そんななか、ヴォイドランク制の噂を嗅ぎつけた魂館颯太たち最低Fランクの生徒たちが、ワクチン入手の為に勝手な行動を取る。
そして物語の大きな転換点となった祭の死。あのシーンは何度見てもつらすぎる……。真っ直ぐで優しくて、最も普通の幸せを体現していたキャラを退場させるのは衝撃的で、当時も視聴者の心をえぐったはず。
原因は颯太たちの軽率な行動ではあるが、集や生徒会の情報管理不足もあって、誰を責めればいいのか分からない。理不尽さと不運が重なっているからこそ、余計にキツい。
ここから集は完全に闇堕ち。ヴォイドランク制を導入し、低ランクの生徒に危険な仕事を押し付け、恐怖で支配する暴君になってしまう。ただ、集自身も「みんなのためだ」と思い込まなければメンタルを保てない状態で、それがいのりへの依存に繋がっていくのがなんとも痛ましい。

そんな状態のなかで行われた東京脱出作戦「エクソダス計画」は無事成功するが、亜里沙率いるクーデター派から裏切られ、さらに死んだと思われていた涯に右腕を切り落とされ、王の能力を奪われてしまう。当時ネットでもネタにされた、「腕があああああ!僕の王の力があああああ!!」というやつだ。
人を虐げてきた報いなのかもしれないが、曲がりなりにも先陣を切ってきたリーダーに対しての仕打ちがこれなのかと思うと、集があまりに不憫で仕方ない。
友達に裏切られ、仲間にも裏切られ、生きる意味を失った集は、いのりと共に逃避行を始める。
ここまで見ても分かる通り、後半の物語は前半と比べて明らかにシリアスで、救いようがない鬱展開もある。しかし、サバイバルな学園生活を通して、人間の闇の部分を徹底的に描き切っているのは素晴らしい。キャラクターの行動にも、共感はできなくても納得できる点は多いので、脚本が酷いと評価される理由は特に見当たらない。
しかし、涯が復活した辺りから、ダァトという秘密結社が物語にがっつり関わってくるのだが、ここから敵組織の目的が掴みづらくなってくる。涯と過ごしてきたアルゴでさえ、「誰か教えてくれねえか、涯の奴一体何やらかす気なんだ」と言っているくらい、止める側も何を止めるのか理解していなかった。
ダァトの目的を大まかにまとめてみよう。
ダァトは、アポカリプスウイルスの第1感染者である桜満真名をイヴとし、復活した涯をアダムとすることで、世界改変を行う、つまり4度目の黙示録を目的としていた。
4度目の黙示録とは、涯曰く「脆弱な肉体を捨て、結晶の中に永遠の思考を獲得する。それが次なるステージ。ヴォイドは前触れだったのさ、心が物質となる新たな世界の。」とのこと。
イブである真名を復活させるためには、魂を入れるインターフェースである楪いのりが必要だったため、ダァトは集と逃げていた彼女を捜していたのだ。
初めて聞いた時はさっぱりわからなかったが、つまり「人類の進化によって、永遠の生を獲得する」ということなのだろう。実際に4度目の黙示録の後はどんな世界なのかというのは、最終回にて丁寧に描き出されていた。

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ただ、ダァトの意思とリンクしていたように思えた涯の行動も、実はかつて愛した桜満真名のことを解放するためであり、4度目の黙示録は本心から望んでいたことではなかった。
涯は、集が必ず止めに来ると賭けていたので、自らが滅びるつもりだったことも明かされる。
後半が怒涛の展開のうえに、尺の都合もあったのか、ダァトやその一員であるユウという金髪少年の説明描写がほとんどないので、誰が何のために行動をしているのか混乱してしまうのだろう。1周目で理解するのは難儀だが、じっくり見てみると、相関図も自ずと浮かび上がってくる。
そういえば、敵組織だと思われていたGHQも、ダァトと茎道修一郎による計画に利用されていたので、完全悪というわけではないのかもしれない、なんてことを思った。
話を戻すが、いのりを連れ去られた集は、これまでに犯してきた罪を省みて、自らに3つ目のヴォイドゲノムを打ち込み、自身のヴォイド「右腕」を引き出す。
集のヴォイドは、他人のヴォイドを格納できる最強の能力を有し、さらにこのヴォイドはアポカリプスウイルスの分離と吸収をすることが可能となる。
友達と和解を果たし、ヴォイドを借りて敵を倒していく集には胸を打たれ、他人の苦しみを次々と引き受けていく展開は、涙なしには見ることができない。「僕に悪意を向けた人だって、誰かに愛されて産まれたんだ」という集の言葉は、アニメ屈指の名セリフである。
この時、いのりは既に真名に乗っ取られてしまっていたが、いのりの記憶が残した結晶の花から彼女のヴォイドの剣を取り出し、最後には涯に打ち勝つのだった。
いのりは全身結晶化が進んでいたため、集は彼女と一緒に世界中のアポカリプスウイルスを集めて逝こうとしていたが、いのりがその全てを引き受けたことにより集だけが生き延びることに。
それから数年後には、集は右腕と視力を失っていたが、かつてのクラスメイトと葬儀社のメンバーと集まっている様子が描かれていた。また集の心の中では、いのりはずっと生き続けているというメッセージを最後に、物語は幕を閉じる。

大きな力には、大きな代償が伴う…にしてもこんな終わり方は辛すぎる!!と思う人もいるだろうし、こんなことなら集はいのりと死んだほうが良かった!!という人も一定数いるはずだ。正直筆者も、これはバッドエンドではないかと思った時期もある。
しかし、これはいのりの意思によるものなのだ。
愛した人の最後の意思を受け取った結末ということを考えれば、否応なしに美しいラストだったと言える。
見終わった後の喪失感は凄まじいが、それも含めて『ギルティクラウン』という作品の強烈な体験なのだ。
ギルティクラウンの総評
何度見返しても、『ギルティクラウン』はアニメーションとして圧倒的な完成度を誇る作品だと思う。
濃密なSF世界観に加え、redjuiceによる洗練されたキャラクター原案、神がかった音楽、そして多少の説明不足はあれど、主人公の成長譚として物語を引っ張る推進力がある。
どの要素を切り取っても、製作陣の凄まじい熱量が込められており、視聴者を強烈に惹きつける。
タイトルに込められた宗教的なモチーフや、ニーチェに通じる哲学的な要素も垣間見え、この作品を一言で片付けてしまうのはあまりに惜しい。むしろ、背景にある思想や設定を網羅した資料集を読んでみたいし、根強いファンも少なくないはずだ。
駄文を重ねてきたが、ここで筆を置こう。
挑戦心に満ち満ちたオリジナルアニメ『ギルティクラウン』は、やはり最高だ。
ギルティクラウンのグッズ情報
GUILTY CROWN Blu-ray BOX

GUILTY CROWN COMPLETE SOUNDTRACK
