【言うほど悪くないが…】酷評相次ぐ映画『果てしなきスカーレット』を観た率直な感想

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2025年はアニメ映画豊作イヤーと言っても過言ではない。特に下半期は、『劇場版「鬼滅の刃」無限城編』第一章 猗窩座再来』や『劇場版『チェンソーマン レゼ篇』、口コミで軒並み高評価を獲得した劇場アニメ『ひゃくえむ』など、アニメ史に名を刻むレベルの傑作が次々と公開された。

そんな中、『時をかける少女』や『サマーウォーズ』を手掛けた細田守監督の最新作『果てしなきスカーレット』が公開されるとなれば、アニメファンなら駆け足で劇場に向かうものだと思っていた。しかし蓋を開けてみれば、公開初日から着席率(総座席数のうち実際に観客が座った割合)が5%を下回るという驚愕の数字を叩き出している。

筆者は公開2日目に鑑賞したが、200席以上あるスクリーンで観客は筆者を含めておよそ7人という寂しさであった。

細田守監督ほどのネームバリューであれば、公開から1〜2週間経って着席率が落ちることはあっても、初日から客足が鈍いのは異常事態と言わざるを得ない。しかもネット上では賛否両論が渦巻き、その中でも酷評が大半を占めている状況である。

今回はそんな悪評スタートとなってしまった映画『果てしなきスカーレット』についての感想を述べていきたい。

果てしなきスカーレット

基本情報

監督・脚本・原作|細田守

主演|芦田愛菜


アニメーション制作|スタジオ地図
放送|2025年
上映時間|111分

キャッチコピー
生きるべきか。

あらすじ
父の敵への復讐に失敗した王女・スカーレットは、《死者の国》で目を覚ます。ここは、人々が略奪と暴力に明け暮れ、力のない者や傷ついた者は〈虚無〉となり、その存在が消えてしまうという狂気の世界。敵である、父を殺して王位を奪った叔父・クローディアスもまたこの世界に居ることを知り、スカーレットは改めて復讐を強く胸に誓う。そんな中彼女は、現代の日本からやってきた看護師・聖と出会う。時を超えて出会った二人は、最初は衝突しながらも、《死者の国》を共に旅することに。戦うことでしか生きられないスカーレットと、戦うことを望まない聖。傷ついた自分の身体を治療し、敵・味方に関わらず優しく接する聖の温かい人柄に触れ、凍り付いていたスカーレットの心は、徐々に溶かされていく―。一方でクローディアスは、《死者の国》で誰もが夢見る“見果てぬ場所”を見つけ出し、我がものにしようと民衆を扇動し、支配していた。またスカーレットが復讐を果たすために自身を探していると聞きつけ、彼女を〈虚無〉とするために容赦なく刺客を差し向ける。スカーレットと聖もまた、次々と現れる刺客と闘いながら、クローディアスを見つけ出すために、“見果てぬ場所”を目指してゆく…。そして訪れる運命の刻。果てしない旅路の先に、スカーレットがたどり着く、ある〈決断〉とは――

映画『果てしなきスカーレット』公式サイトより

壮大な世界観に惹き込まれるが…

本作は、国王の父を殺された子どもが復讐に取り憑かれて奔走する、シェイクスピア作『ハムレット』を下敷きにした物語である。

展開は意外に早く、序盤で復讐に失敗したスカーレットは仇であるクローディアスに毒殺され、「死者の国」へと堕ちてしまう。

まず、この「死者の国」の設定が極めて魅力的だ。空に浮かぶ広大な海、どこまでも続く荒野、体中に剣が刺さった巨大な龍など、その歪で終末的なビジュアルの数々には息を呑む。

そして謎の老婆から、この世界は生と死が混じりあう場所で、過去も未来も常に溶け合っていると説明を受けることで、本作が骨太なダークファンタジーであることが序盤で明確になる。掴みとしては非常に優れているのは間違いない。

だが、現代の日本からやって来た青年・聖(ひじり)が登場し、スカーレットと行動を共にするようになってから、どことなく嫌な予感が漂い始める。

この世界には過去・未来から人間が送り込まれているはずだが、劇中で現代出身者は聖だけであり、ほとんどがスカーレットと同じ16世紀の人物で占められている。そのため、わざわざ物語の軸をデンマークから日本へ移した必然性に疑問が生じる。

さらに聖というキャラクターにも強い違和感を覚えた。現代で看護師として働く彼は、復讐に燃えるスカーレットに「殺すな」「傷つけるな」と不殺の理念を説くが、その発言があまりにテンプレート的で綺麗事に終始しており、人間味が薄く共感を得にくい。

加えて終盤、否応ない状況とはいえ聖自身が人を殺す場面があるにもかかわらず、その心情が一切描かれないため、結果として彼のキャラクター像は不気味さを増してしまっている。

看護師を志した理由も、「看護師がボロ雑巾みたいに働いているのを見て、俺もやってみたくなった」というサイコパス的なもので、この人物を狂気と呼ばずして何と呼ぶのか判断に迷うほどだ。

スカーレットが復讐に囚われ、聖が負の連鎖を止める役割という構図は理解できる。しかし聖の行動原理や発言に説得力が欠けるため、二人のやり取りはどこかチグハグで、ドラマとしての一体感に欠ける。

そして極めつけは、観客を置き去りにする突然の渋谷ミュージカルシーンである。筆者も「これは一体何を見せられているのか?」と呆然とし、鑑賞後に思考を巡らせたものの、明確な答えは出なかった。

あくまで推測だが、あの場面は「平和な世界とはどういう場所なのか?」というスカーレットの希望的観測が可視化された空間であり、復讐に囚われた少女がその思考から解放された瞬間を、自由度の高いミュージカルという形式で象徴したのではないかと思う。しかしメッセージが明確に伝わる構造になっていないため、酷評とまではいかずとも「よく分からなかった」と感じる観客は多いだろう。

一貫したテーマと圧倒的アクション

気になる点は多いものの、巷で言われるほどの駄作とは筆者は思わなかった。

まず、物語全体を通してスカーレットが「復讐するか、赦すか」という選択で揺れ続ける点は、非常に分かりやすいテーマの提示である。元が『ハムレット』であることも相まって、「復讐に次ぐ復讐が負の連鎖を生む」というメッセージが一貫して語られており、映画として評価されるべき骨格の強さを持っている。

またスカーレットは、旅を続ける中で聖の平和的価値観を通して世界を見るようになり、異文化の他者を理解し、寄り添う姿勢を学んでいく。これは物語としての成長が明快で、鑑賞者にとっても感情移入しやすい構成だ。異文化理解や世界平和というテーマは、細田守監督が現代社会に対して抱く思いの表れであり、青春や家族愛を描いてきた過去作とは明らかに異なる方向性を示している。

映像体験としても非常に光るものがあり、特にアクションシーンは、3Dをベースに2Dを随所に混在させることで、これまでにない迫力と可読性を両立した独自のスタイルを築いている。

その背景には、『ベイビーわるきゅーれ』シリーズのアクション監督・園村健介がスタントコーディネーターとして参加し、主演の伊澤彩織がスタントアクターとして出演している事実があり、彼らの実写アクション的な生々しさが、アニメーションに新たな質感をもたらしている。

細田守監督はインタビューで「3Dアニメーションで出来る表現はもっとある」と語っていたが、本作の映像表現はその言葉どおり、今後のアニメの新たなスタンダードになり得る完成度を誇っていると思う。

ただし本作を要素ごとに分解してみると、世界観・音楽・テーマなどはどれも一級品であるにもかかわらず、それらとストーリー、キャラクターの噛み合いが十分でないままエンディングを迎えてしまう。そのため鑑賞後に「結局あれは何だったのか?」という整合性の欠如が浮かび上がり、それが批判につながっているのではないだろうか。

とはいえ筆者としては、寄ってたかって酷評するほどの作品ではないと感じている。むしろ刺さる人には深く刺さるタイプの映画であり、興行的には苦戦するかもしれないが、5年後・10年後に再評価され、カルト的な人気を博す可能性を大いに秘めている作品だ。

それほどに『果てしなきスカーレット』は独特で、強烈なエネルギーを持った映画であるのは間違いない。

果てしなきスカーレット (角川文庫)

投稿者 cinedrip

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